今頃になって「かんぽの宿」騒動で分かった!賛否両論なき日本のネットはゴミの山について考える。

1ヶ月以上前にhttp://diamond.jp/series/kishi/10027/という文章が載った。この方は、今までインターネットの普及に伴って変化している著作物の管理のあり方についてコラムを載せているので、ただ使いこなせないから行われるインターネット否定論のようなものとは違うだろう。
 マスメディアとしてのインターネットに対して失望した理由は2つあるらしい。1つは根拠のない主張あるいは稚拙な論理展開による主張が大半である。もう1つは、「検索」をかけると一方的な主張ばかりがトップランキングに入り、対立する主張が見えない。ない訳じゃないのかもしれないが見えないと述べている。

 脊髄反射的には検索の仕方が悪いのでは?とか大衆が理路整然とした議論をすること期待するなんてナィーブすぎるとか思い浮かんだ。しかし、これらの元となっている期待はインターネットの機能として興味がそそられる。

その1:検索結果がランキングによる一次元の配列では得られる情報が限られる。知りたいkey wordが同じだが関係のない話題や同じような内容のものばかりが出てきてしまう事も多い。そのために、いくつものkey wordを加えて知りたい情報を調節しているのが現状だ。不要な情報を切るp-value閾値も必要かなと思う。
 また、最近はクラスタリングされた検索エンジも複数でてきている。使ってみると、自分の考えていなかったkey wordが集団としてでてくる。今までのように検索をかけて移動し内容を読み、また別のkey wordを考えて検索をかけるような断続的は不便に感じる。key wordを操作しながら内容をよみ、必要なもの集めて表にする事が一般的な操作方法になると思う。今はそんなものはないけど、検索と内容の同時表示、一時的な履歴の保持とその履歴を取捨選択する機能があると検索という操作自体がずいぶん変わると思う。検索がインターネットで見える視界であるのは否定しないが、現在の形が視界の限界ではない。

検索の意味がわかってない・・・でも、検索はある種の世論を示している
http://blog.goo.ne.jp/rose6986/e/c66a503f51deb1e452aeaff689ab2a31#
http://blog.goo.ne.jp/rose6986/e/da8f8fb0f33fb1d3b0ff64cf4be37a81

そもそも議論が深まるには前提条件があり、それは常に形成されるようなものでない。かつては議論を2項対立にする権力性をマスメディアが持ち、それが機械が持つように変わり、従来から考えると不自然あるいは不在になっている?
http://d.hatena.ne.jp/yehl431/20090215/1234788400
google論・反google論でも権力性として展開されてた。しかし、この権力性が無くても良い曖昧で良いという意見は珍しい。前回blogに書いた世論を形成する前の「大衆の無意識」に近いのかな?

その2:一部のアクティブなユーザー間のネットワークに影響され世論との乖離している。ネット勢力図など見てもわかるように、ある程度の集団が形成されいて、内側は一定の論法や価値観が共有されている。この内部の肯定的なネットワークが密接であると、小集団でも検索で上位にあがってくる。これは本当の世論ではなく、集団外部との関係性を見て始めて社会的価値が見えてくるだろう。ID(個人)を固定せず各サービス(場所)に出入りするため、この集団が社会から見てどういう性質かが見えにくい。匿名IDでも今はいっている集団を捕らえることは可能なはずだが、現在のインターネットが最も機能していない部分だ。おそらく、個々webサービスと集団が密接にリンクしていて、googleのような巨大サービスでければ集団の性質を明らかにするメリットが生まれていないのだろう。この機能不全を現実世界に埋めようと考えると匿名否定に繋がると思う。


これらの問題は、ある程度機能的に補完することは可能だろうし、便利なのでサービスとして強化されていくと思う。集団というのは個人の想像を遙かに超えていて、機構に頼って処理していくしかない代物だ。その一方で、飛躍的な能力の拡張にもなり得る。この状況は国に責任をもつ王を持たずに、国民だけで国を運営し始めた時期に似ているように思える。かつて政治機構が直面した制御の難しい得たいモノに、個人が向かい合う時代が来たのかもしれない。